映画版ハムレット5本
さて、ハムレット(映画)の各種についてそろそろ書いちゃいましょうか。
シェイクスピア作品の中ではハムレットは映画化された本数が多いほうではないかと思うんですが、きちんと比べたデータなど参照したわけではないので、あくまでも私個人の目についたものからのふわっとした印象で言っているだけです。とにかく私が把握できて繰り返し鑑賞してきた映画は以下の5種です。舞台上演版やスタジオ収録版のものも各種鑑賞していますが今回は「基本的に原作に沿って」「映画として制作された」ものに限定しようと思います。
ローレンス・オリヴィエ監督 1948年 英(英語)
グレゴーリ・コージンツェフ監督 1964年 ソ連(ロシア語)
フランコ・ゼッフィレッリ監督 1990年 米・英・仏(英語)
ケネス・ブラナー監督 1996年 米・英(英語)
マイケル・アルメレイダ監督 2000年 米(英語)
まずはオリヴィエ版。
自分にとっては映画版ハムレットで最初にたっぷりリピート鑑賞したのがこのオリヴィエ版なので、どうしても基準にしてしまうところがあります。
比較的原作に忠実に進行しますが、配役を見ればわかる通りでフォーティンブラスは登場しません(台詞中には出てきます)。そのほかにもちょこちょこカットされて、それでも155分あります。
音楽はウォルトンでオープニングから荘厳な感じ。古い映画によくあるタイプで最初にエンドロールみたいなやつがきて…というのもなんだか変な言い方ですが、とにかくそれがすむと、この映画のキーとなっているハムレットのセリフが読み上げられ、冒頭のシーンがきます。この映画は原作通りで、ホレイショやマーセラスらが前王の亡霊に遭遇する場面から始まります。私は中学生のころに翻訳版をちゃんと読まずにいきなり原語で読もうとしたときにこの場面で「なんか自分が思ってた英語と全然違う!」という衝撃があったので、この場面から始まっているハムレットが好きです。
オフィーリアはジーン・シモンズ。「若くて無邪気だった」という前提を貫く形で描いていると思います。実は私は彼女の出演作品は先に「黒水仙」を観ていたため、なんとなく最初違和感がありましたが、ほかの映画のオフィーリアたちと比べて行くうちにいろいろ納得しました。特にポローニアスの死の後の場面は、歌声も含めて「凄惨過ぎない」ところでとどめており、美しい。オフィーリアの死の場面は、明らかにラファエル前派の画家J.E.ミレーの「オフィーリア(1852年)」を再現しているものでしょう。オリヴィエがこれをやっちゃったので、そのあとの作品ではこの手が使えなくなっちゃった。いや、別に使ってもいいと思うんですよ。ハムレット以外の映画や各種映像作品ではこの絵画を再現して象徴的に表現する手法をとっているケースはかなりあちこちにみられるのだし。でもハムレットではやはり「それじゃオリヴィエ版まんまではないか…」と思われちゃうんでしょうね。
ガートルードの演出もハムレットを観比べる中で面白い点の一つだと思っています。ハムレット王子が母であるガートルードの早い再婚を嘆く台詞やそのほかの要素からガートルードの解釈が分かれるわけですが、オリヴィエ版では父が愛した王女としての気高さは失わずに描かれます。しかし、オフィーリアの死を伝える台詞を聞いていると、ここが役者のうまさなのか演出のうまさなのか、「ちょっと待って…なぜそんな細かい描写ができるの?その一部始終を…見ていたの?」という疑問がわいてきたりもします。ガートルードって…まさか…と思いつつ、まあ落ち着いて考えれば、舞台上演する場合はオフィーリアの最後を視覚的に描く設定ではないため、台詞を通して何が起きたのかを描写する必要性があり、その役目を負ったのはとにかくガートルードだった、ということですね。最後の剣術の試合でのガートルードは、クローディアスが祝杯に毒を入れたことを察しつつ自分から飲んでいるように見えます。
クローディアスの犯した罪(兄である前王を毒殺したこと)は亡霊によって告げられるわけですが、裏付けとしても本人が独白として告白している場面があるので、「ほんとはシロかもしれない」という解釈は成り立ちそうにありませんし、どんな監督でも「実はいい人」とは演出しにくいでしょう。ということでとにかく基本は悪役です。まあ、王の弟という立場でいろいろ思うところはあったのだろうな、とかいうのはもちろんあるわけですけれど…。一方、ホレイショはどの映画でも大体いい人というか、どんなときにもハムレットの忠実な友であり続ける人です。オズリックの扱いなんかも観比べると地味に面白いのですが、この辺りは今回は触れずに進めていきたいと思います(書こうと思えば書きたいことはいっぱいあるけれどあまり長々と書いても誰も読まないでしょうから…)。
ポローニアス(宰相でオフィーリアやレアーティーズの父)については、この映画ではいかにも「小賢しい」感じで、最初はあまり好きではなかったんですが、いろいろなハムレットを見るうちに「そんなに悪い人じゃないよなあ」と思うようになりました。
ヨリックの場面では、地面に置かれたスカルにハムレットの影が重なるところがとてもいい。これも、ほんの1カットながらその後の作品でまねできなくなっちゃって監督たちは悔しかろう…という名演出だと思っています。
きりがないので次に行きましょう。コージンツェフ版です。
音楽はショスタコーヴィチです。冒頭は前王の死で悲劇が幕開けとなる城の様子が描写され、原作の冒頭シーンはカットされています。
コージンツェフ版でとにかく素晴らしいのは、オフィーリアです。素晴らしいっていうか、とにかく私のイメージ通りというか。
ガートルードはオリヴィエ版に比べると再婚にはしゃいでいるように見えますが、これくらいなら、国の情勢を考えて踏み切ったのかなあとか思える範疇ではあります。演出として圧巻なのはハムレットがポローニアスを刺す場面。ガートルードの部屋のワードローブに隠れていたポローニアスはハムレットに仕切り幕越しに刺されて倒れこんでくるため、ワードローブがあらわになる。そこにはトルソーに着せた衣装が並んでいて、ガートルードの抜け殻のように見えます。前王の愛したガートルードの虚ろな幻影。すごい演出だなあと思います。
その後、父の葬儀のためにオフィーリアが支度している場面で、朦朧とするオフィーリアに女官たちが金属製のコルセットとクリノリンを身につけさせ、黒い衣装を着せ、黒いベールをかぶせていくんですが、これが本当に怖い。拘束具というか、檻というか籠というか。そして葬儀が済むと、彼女はその衣装を脱ぎ捨て、彷徨いはじめるのです。彼女に踊りを教えていた女官の姿を見て踊りだすところも、音楽も含めた演出がさすがというか、ショスタコーヴィチすごいよなあ…という。
オフィーリアが摘んだ花々(コージンツェフ版では暖炉のそば(?)に落ちていた枯れ枝)を花の名前や花言葉とともに渡していく場面は、原作でも和訳版で「誰に何を渡すか」が記されていたりしますし(原語版では自分が持っている2種とも誰に渡すかのト書き的記載は無し)、各監督や演出によってかなり違いがある場面の一つかもしれません。ちなみに、この場面のほかにも原語版で見比べると繰り返されるはずの台詞の回数などで出版によって微妙に違いがあったりするのですが、いかんせん専門外なのでなぜそうなっているのかよくわかっていなくて…その辺りのことはいずれ改めてシェイクスピア研究の本などいろいろ漁ろうと思っています。なにしろ「誰に何を渡すか」を含めて考えると特に、レアーティーズがこの場面で述べている通りでなかなか深い意味が見いだせたりはします。それを利用してオリヴィエ版でははっきりと「無邪気に見えていたオフィーリアもいろいろ事情を分かっていたんだな」ということが演出されています。が、コージンツェフ版では騒ぎで集まっていた衛兵なんかに渡していってしまいます。どちらもいろいろ考えさせられる、興味深い場面です。
ヨリックの場面でハムレットがスカルを手にしながら語っていると中から砂がこぼれ落ちるんですが、そのタイミングもハムレットのリアクションもオリヴィエ版にそっくりです。ただ、意識的にそうしたのか偶然そうなったのかは…わかりません。
140分なのでオリヴィエ版より短いですが、かなり満足度が高いです。
ゼッフィレッリ版は…はっきり言って大嫌いです。
オペラ演出家としてのゼッフィレッリは素晴らしいと思っています。映画でも「ロミオとジュリエット」はいくつかのシーンで疑問はあるけれど全体的には隅々までよく練られていてすごいなあと思って観ています。が、ハムレットは…イライラします。
まずガートルード。冒頭の前王葬儀の場面と劇中劇後はただ狼狽え、それ以外はひたすらニコニコ無邪気にはしゃいでいて、何を考えてるのかさっぱりわからない。剣術の試合でもニコニコ無邪気に盃に口をつけます。何もそこまで能天気に描かなくてもいいだろうに、なんか恨みでもあるの?と思ってしまう。
オフィーリアは…検索すればすぐに誰が演じているかわかると思うのであえて名前はここには書きませんが、なんというか、何に苦しんでどうして正気を保てなくなったのか、全然わからない。演出として性的な妄想を露骨に想起させる動作をさせていますが、原作の読み取りでもあくまでも「ダブルミーニング」として潜ませている要素をわざわざ「皆さーん、いいですか?ご覧ください、ここはこういう意味ですよー!!」と見せつけるやり方で、私は好きではないです。
ハムレットは、原作を読めばわかりますが、実は結構口が悪いんですけれど、それが「現実に嫌気がさして痛烈になってしまう」ではなく、ただ口が悪いように見えてくる。
レアーティーズも…別にこういう人でもいいんだけど、うーん。うーん。なんかちがう…としか言いようがないんですけれど、なんか違う。どう違うかも説明できないくらいもやもやした印象で、考えるのがめんどくさくなってきてしまうんですよね…
とにかく、私個人の感想として...ですが、誰も「なるほどこういう人間なのか」と理解し肩入れしたくなる人が出てこないんですよ…よくもまあこんなにいやな話に演出したもんだ…と思ってしまう。
135分にまとめた割には原作にないローゼンクランツとギルデンスターンの処刑の場面をわざわざ入れているのも理解に苦しみます。
ブラナー版は、とにかく長いです。242分。台詞はすべて原作通りだと思いますし、映画だと場面描写や転換などが長くなりがちですから、舞台版収録映像等より長くなってしまうんですよね。
原作を読む代わりに映画を見たいという方にはおすすめですが、なぜか19世紀半ばあたりに時代設定されています。私はこの点がどうにも違和感がありまして…監督ブラナーは主演もしているので、16~17世紀の衣装を着るのが嫌だったんじゃないかみたいなつまらない勘ぐりをしたりするんですが…。
正気を失ったオフィーリアの描写を含め、ゼッフィレッリと同じくダブルミーニングの「裏のほうの意味」をわざわざ見せつけるタイプの演出が多く、解釈とリアリティとは何だろう…ということを考えさせられてしまいます。
剣術の試合でのガートルードもゼッフィレッリ版と同じく「毒入りだと思って飲むわけではない」ほうの演出に見えます。
実はブラナー版は最近観返していないので、ここでこれ以上書くのはやめておきます。
最後、意外と面白かったアルメレイダ版。
前回ブログでハムレットのことを書いた際、アルメレイダ版を鑑賞しながらMastodonに投稿したものを転載しているので重複しますが、とにかく典型的な現代演出です。国家としてのデンマークではなく、デンマーク・コーポレーションとして出てきますし、エルシノア城ではなくホテル・エルシノアです。英国送りになるハムレットは飛行機で移動しますし、親書もPCとかフロッピーディスクとかで託されています。英国から帰ってくるハムレットはホレイショがバイクで迎えに行きます。剣術の試合は、知らせがFAXで届き、フェンシングの試合として電子判定装置を使って行われます。それじゃあどうやって刺すんだ?っていうとそこはやにわにピストルが取り出される展開です。ポローニアスもピストルで撃たれます。劇中劇はハムレットが編集した動画の上映会ということになっているし、オフィーリアはホテル・エルシノアの噴水池みたいなところで発見されます。
ハムレット映画の観比べポイントで必ず注目している剣術の試合でのガートルード、この版でははっきりと「毒入りだとわかって飲む」ことが強調されています。一滴も残さず飲み干すわよ!と言わんばかりの飲みっぷりです。
現代演出であるがゆえにヨリックの場面も無いし、ほかにも原作としては重要とされる台詞が含まれるいくつかの場面が抜けていて(そのためハムレットとしては短めで112分にまとまっています)、いろいろ残念と言えば残念なんですが、基本的にオペラなんかでも現代演出があまり好きではない自分としては、思ったより全然面白かった!
書いている分量でバレバレですが、私は映画としては総合的にはオリヴィエ版、ただしコージンツェフ版でここに書いた点もやはり圧巻なので、今後もきっとどちらも飽きずに繰り返し鑑賞していくと思います。

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