ピアノの絵

もう15年とかもっと昔の話になるでしょうか、イギリスかどこかの海岸に記憶喪失の状態で男性ピアニストが漂着したところを保護された、というニュースがありました。

今も当時も変わらず自分はTVを所有しておらず、うちにやってきた生徒さん（高校生）から聞いて初めて知ったのですが、その後は電車内の吊り広告などでも「謎のピアノマン」とかいう見出しでちらほら続報が話題になっていたのを覚えています。

生徒さん曰く、「記憶喪失で海辺で発見されたが、紙と鉛筆を与えたら見事なグランドピアノの絵を描いたのでピアノのある場所に連れて行ってみたらショパンの難曲をすらすらと弾き始めた」みたいな展開だったそうで。

ちょっとまって。それ、たぶん、仕込みネタだと思うよ？

たとえば自分はグランドピアノの蓋（いわゆる「屋根」）が開いた状態を横から見た絵なんてなかなか上手には描けません。シェイプが独特なこともあり意外と難しいですからね。あと譜面台は入れたままか立てるかなんかも悩むと思う。

そして何より、もし記憶を失ってもピアノのことを思い出してピアノが弾きたいと思ったなら、自分なら横から見たピアノじゃなくて、鍵盤を描くと思う。

だって…3歳のころから一日何時間も座り続けてきたのは、鍵盤の前なんです。

自分にとっては、横からピアノを見ている時間のほうがはるかに短い。しかも家での練習で屋根を最大に開けることは珍しい。だから、コンサートの時みたいな状態のグランドピアノを横から見た絵なんて描こうと思う理由がわからないんですよ。

生徒さんは「えーまさか！」って笑っていましたけれど、それからしばらくたって「あれはやらせだった」という話題が流れてきて「ああやっぱりなあ」と思ったものでした。

などというのを思い出したのは、昨日ツイッターで「近所にすごい高級ピアノを何台も所有しているおうちがあって、たぶんその人すごいピアニストなんだろうねー！」みたいな話題が盛り上がっていたのを見たからなんですけれど。

残念ながら、そういうものでもないと言わざるを得ません。

こういう先入観があるから「音楽家なんてどうせお金持ちなんでしょ」みたいにいわれちゃうところがあるんだろうなあと思う。まあ確かに、自分はいろいろ苦労はしたんですけれど、たぶん恵まれているんだとは思います（食べるものがないとかいうことはなかったので）。

でも、ピアノ弾きとしての腕前と所有楽器の台数や高級さが比例するものではない、ということだけは言えます。

どんな楽器でも最善を尽くし良いコンディションにしてくれる調律師さんたちにもとても失礼な発想です。

ことにピアノは「コレクター的にいい楽器を持ちたい」人と「道具としてよいコンディションに保ちたい」人の考えは似て非なるものだと思っています。私は圧倒的に後者です。この1年はコロナの件があり、思うように調律師さんに来ていただくこともできず辛い日々です（うちのピアノ室は換気装置はあるけれど他人には不安だろうなと思う環境なため）。

以前、音楽は趣味でなさる若い方がうちに遊びに来ることになり、一緒に来る人が「きっとすごい楽器があるんだろうなって楽しみにしている」というので、「期待は裏切ることになると思いますよー、ごく普通の楽器ですからね、調律入りたての時は調律師さんのおかげでいい状態ですけど」って話したことがあります。

自分の楽器ごとツアーに出られた昔の巨匠たちはまたちょっと別の話ですけれど、そもそもピアノ弾きはよそのピアノを弾くものです。いい楽器を弾きなれることが大事っていう部分は確かにありますが、その楽器からどんな音が引き出せるかはやや別の問題なんです。

個人的にはまずは「電子楽器ではないこと、ある程度以上の技術を要する曲を弾くようになったらできればグランドを持つこと（構造上の問題としてアップライトだと困難な点が出てくるためです）」以外はあまり関係ないなあと思っています。MotoGPライダーも公道でああいうマシンに乗っているわけではないでしょう。「あの家すごい車が何台もあるからきっと有名なレーシングドライバーなんだね！」とも思いませんよね。それとはまあちょっと違うんでしょうけれど、ある意味似たような話でもあります。