おとり捜査を依頼された話 その③
そんなわけで、明け方にうろうろするのはいかにも怪しいので、アートギャラリーの事務所の住所を地図でしっかり下調べし、夜明け前まで仮眠をとり、階上の住人の窓に明かりがともっていないことを確認し、静かに出かけました。
事務所はありました。まあ時間も時間ですし、不法侵入にならない程度となるとその事務所が入っているビルのポストで確認するくらいしかないわけですが、少なくとも、ポストには会社名がきちんと入っていた。昨日今日入居してポストに名前を貼りだした雰囲気でもなさそうでしたし、チラシがはみ出ているといった様子もない。うん、これはまあ、本物かな。
帰宅して生徒からの連絡を待ちつつ、かかわっているプロデューサー氏にも先手を打ってメール。もし名前の出た音楽関係者が実際本当にMさんやアートギャラリーの顧客で、私の名前が出た場合に備えて、です(ないとは思いましたが、念のためです)。また、当時個人アシスタントをしていた上司的な立場の人にも軽く「こんな話がある(が断るだろう、困ったら相談に乗ってください)」という内容でメール送付。
頼んであった件で生徒から連絡が来て、その名前(Mさん)の知り合いはいない、とのことでした。とはいえ、そういう関係者を全員知っているわけじゃないけどね、とのこと。
そして、こんなアドヴァイスをくれました。
「先生、気を付けてね。断るって決めているんでしょ?断るって言ったら、その人きっと一度すごく怒って、でもたぶんだけど、そのあとに、すごくいい笑顔で「いつでも相談に乗るよ」って言ったら、それ、間違いなく詐欺師だからね。」
予想していた通り、その日もMさんは練習が終わるなり電話してきました。で、ほぼ同じことの繰り返し。その次の日の昼間も建物の入り口でばったり会ってしまい、お茶を飲みに行くといってつれだされてしまいました。で、ほぼ同じ内容で詰め寄られるわけです。
面白かったのは、例えば初日の深夜に生徒と電話で話していた時、「そんな大物ディーラーさんが何でこんな物件に住んでいるのかねえ?」っていう会話をしたんですが、それをまるで盗聴していたかのように、次の日に「実は今家を建てているが工期が遅れていて、つなぎで住める物件を探してここに越してきた」などと言い出した。ただ、その次の日の昼間にお茶を飲みに出かけた時の帰りに「その物件を見に行こう、ここから近いんだよ」といって連れていかれた建築中の建物が、なんと、その日にまさに本当の所有者の表札が出たところだったんですよ・・・もちろんMさんの名前ではない。Mさんピンチ!そこは最寄駅へのルートから少し外れているけれど自分はよく通る道で、割と建築物に興味もあるので、建築過程をよく見ていたし、所有者がしばしば見に来ていたことも知っていた物件でしたが、Mさんはそれを知る由もなかったでしょう。慌てて「この中が2つに分かれているんだよ」といいだしたけれど、うーん、苦しいねえ。
あと、会うたび見かけるたび、Mさんの外見的な印象が異なるのも興味深かった。最初見かけたときはギラっと髪を撫でつけてスーツ姿。昼間に会ったときは野球帽にスウェットの上下、など。
さて、3日ほどそんな押し問答というか、まあまとめると、
「転売益を得るために名義を貸せ、最初の購入費用は必要だが来月必ず利益が出るので安心しろ。1か月その絵が自分の部屋にあるっていうだけで君の音楽家としての肥やしにもなるんだ、早く決断しろ」
こんな感じの内容でぐいぐいくる状況でした。
何度も強調されていたのは「君の才能を見込んでのこと」「ほかに自分から頼んでくる人がたくさんいる」「ライバルは多い」「今逃したらチャンスはない」みたいな点です。
もちろんこっちはずーっと断り続けていたんですが、お構いなしに、とうとう、明日までにお金を用意して書類に必要事項を記入しておけ、という状況にもちこまれました。なので、かなり強硬に断らねばならない。
連絡を入れておいたプロデューサーや上司に協力を仰いだら(ちなみに両者とも男性)、「それ、いい話なんじゃないの?うければいいのに」とのこと。こりゃだめだ・・・と思い、大家さんに「こんな感じのことが起きています、もめるかもしれません」と説明。大家さんはわりとちゃんと話を聞いてくれて、何か困ったことがあったらすぐ相談するように言ってくれました。
念のため、地元での知り合いの男性(仕事の都合で昼間は家にいることが多いといっていた人)に、「こういう状況になっていて、明日その話を正式に断るのだが、ちょっと怖いので、偶然を装ってタイミングを合わせて家を訪ねてきてほしい」と依頼。DVDなり本なり返しに立ち寄ったって体裁にしてください、と打ち合わせて住所などの確認もしました。
とりあえず打てそうな手はすべて打った。
同じ建物に住んでいる以上、後々もめるような面倒なことはきっとしてこないだろう。でも、正直怖い。
さて次の日。
アポイントの時間になり、Mさんがやって来ました。
お茶だ食事だと連れ出されると計画が台無し(知人にタイミングよく訪問してもらう手はずだから)。でもお店のほうが危険ではないかもしれない。難しいところでしたが、外でもめた場合、世の中は必ずしも女性の味方ではないと知っている。相手は間違いなくスーツを着てくるだろう。そうなると、世間は思ったよりずっと相手の味方につくものだ。契約書類を用意されている都合上、こちらが納得して話を進めている状況で押し切られてしまうし、社会的立場がある相手の信頼度が上。私は得体のしれないフリーランサーでしかない。なので、家で一人で戦うほうがまだましだ。そう思いました。私に危害を加えて相手は何の得もない。窓のカギは開けておこう。念のため録音機もすぐオンにできる状態でポケットに(そのためポケット付きの服に着替えた)。階上にはその人の婚約者もいるはずだ(割とずっと家にいるようだった)。応援も呼んである。隣には大家さんもいる。
思った通り、Mさんはスーツ姿でした。ほら、読み通りだ。
上の階から降りてきたのではなく、外出先から直接来たとのことでした。この後また出かけるからお茶でものみに出るかと聞かれましたが、この後別の用事があるので、と言って断りました。
Mさんは当然私が書類とお金を用意しているものと思っていたようですが、書類などはすべて白紙のまま、預かっていた資料のフォルダとともに返し、「私はこの話は受けません」とはっきり言いました。Mさんはかなり怒った様子で、「君は10年後の自分を思い浮かべられているのか?」ときいてきます。
いいえ。明日たまたま命尽きるかもしれない。だから10年後の自分のためではなく、自分は今の自分のために一番必要なことをします。それは、絵を買い取って転売益を得ることではなく、今日も安心して練習ができること。それは、たった一人であっても私の演奏だから聞きたいと思ってくれる人に聞いてもらうため。だから、いい音楽だと思ってもらえる演奏をすることが大事なのであって、大きな会場で演奏する資金を集めたり、メディアに名前を売り込むために奔走することではない。だからあなたの話は受けません。これ以上お話することはありません。
頼んでいた知人はちっともやってきませんでしたが、Mさんはやや恫喝ムードで少し粘ったのち、あきらめたのか、不意に、生徒が言っていた通りの”ものすごくいい笑顔”になって、「残念だけれど、君の才能は信じている、またいつでも相談に乗るから」と言い残して出ていきました。
やっとおわった・・・
入れ替わりに、タイミングよく訪問してくれるように頼んでいた知人が遅れて到着。
「ああ・・・おかげさまで、いますべて片付きました」「あ、そうなんですか・・・」「遅かったですね、家の場所わかりにくかったですか?お手数かけていろいろ申し訳ありませんでした」「・・・いや、実は、時間通りについてたんですけど、ちょっと外で様子うかがっていたんですよ・・・いきなり行くのもなんか怖いっていうか・・・」
は・・・?この腰抜けが。
・・・おっと、言葉が悪くなって申し訳ありません・・・まあ、ただの知り合いなのに、そんな面倒には巻き込まれたくなかった気持ちは、はい、わかります・・・。
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