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「市民ケーン」

「市民ケーン Citizen Kane(1941米国)」は映画史上最高傑作と評されることも多い、オーソン・ウェルズの監督デビュー作です。名作中の名作として名高いですから、ご覧になった方も多いかもしれません。が、映像作品鑑賞ではビデオオンデマンドやネット配信が主流なのではと思える現代において、こういった古い映画が実際どのくらい鑑賞されているものなのか、自分には今一つイメージがわきません。話題の最新作などを追うのに忙しく、なかなかこういう古典的作品に気持ちも時間も割く余裕はないんじゃないかなあ…などと思ったりもします。


興味深いことに(と私は思うのですが)、ネットでこの作品について検索すると、英語でも日本語でも「この作品のどこがすごいのか」といった見出しでヒットする記事が多い。映画のタイトルを入れただけで「何がすごい」「なぜ名作なのか」といったサジェストも出るくらいです。一度は観るべき名作!などとどこかで見たり聞いたりして、どんな作品なんだろう?と検索すると、こういう解説が並んでいるわけですが、素晴らしい作品なんだから紹介しようとすれば当然そうなる…まあ、それはそう。でも、なんというか、こういう見出しばかり並んでいると、まるで「あんまり面白くないと思うかもしれないけどすごい作品なんだから頑張って解釈しましょうね」と言われている気がしてしまうのは、私がひねくれているからなんでしょうかね…

実際、リアルで会話した人からも、ラジオのトークなどでも、「観たけど、あれすごい映画なんだぞって熱弁する人の気持ちはよくわからなかった」とか、もっとストレートに「つまらなかった、退屈な映画だった」といった意見も聞きました。

そんな前評判とリアルな反応を知ったうえで、なんとなく観ておかなきゃなという気持ちだけでディスクを購入し、繰り返し鑑賞してきた自分が書きます。


これ、すごい映画だと思う。

そして、いろいろな意味で、未見の方も、すでにご覧になった方も、今こそこの映画を観るべきな気がする。


私は映画関係の知識は全くの素人なので、映画の技法としてここが画期的!とかいった解説はできませんし、そういった分析はちょっと検索すれば本当にたくさん出てくるので(実際、検索してヒットする「この映画が名作と呼ばれる理由」的なサイトの多くはこういった要素と絡めているものが多数を占めている印象です)、私は主にストーリーと人物について言及しようと思います。

なお、スクリプトは第3稿くらいまであるようですし、映像のほうも何通りかあるのかもしれません。私はそういう意味でまったくのところ「映画通」ではないので、私が所有するディスクで鑑賞したものとして書かせていただきますこと、ご了承くださいませ。


作品全般についてはいつものことですがWikipediaのリンクからご覧ください。



というわけで、ここからはいわゆるネタバレです。これを読むより映画見たほうが 速いんじゃないかってくらい結構細かく書きます。80年以上前の作品ですから今更ネタバレも何も…とは思いますが、ネタバレしたらもう観る気になれないという方はご注意ください(鑑賞後にぜひ続きをご覧ください…余談ですが自分はネタバレ大歓迎というか、むしろ顛末を分かったうえで落ち着いて鑑賞したいほうでして…ネタバレに対する感覚がちょっとずれている可能性があります)。

なお、この映画はもちろんフィクションですが、登場人物のモデルとなったとされる実在の人物に関しては、ここでは深く追及しないことにします。

また、この映画では時系列が前後して、功成り名遂げ大邸宅に隠棲ともいえる生活をしていたケーンが息を引き取る場面から始まりますが、ここでは敢えて人物とストーリーについて主に時系列通りに書いていきます。


主人公はタイトルの通り、チャールズ・フォスター・ケーンです。監督でもあるオーソン・ウェルズ(当時25歳)が子供時代を除きケーン氏の生涯全てを演じています。新聞王と呼ばれたケーンはその名の通り37の新聞社を経営し、雑誌出版やラジオ放送局など各種メディアも傘下に持つだけでなく、食料品店チェーンや不動産経営、製紙工場から豪華客船に至るまでの様々な業務から、そして何より世界第3位の金鉱から、巨万の富を築いた人です。


もともと、ケーンはコロラドで下宿屋を営む両親の元で暮らしていましたが、6歳(1870年)の冬、彼の人生を大きく揺るがすことが起きます。Wikipediaより引用すると以下の通り。

「ある時、宿泊費のかたに取った金鉱の権利書に大変な価値がある事が分かり、その名義人である母親は大金持ちとなった。母親は反対する父親の声に耳を貸さず、ケーンをニューヨークの銀行家サッチャーの元に預け、彼に運用を任せた資産をケーンが25歳になった時に全て相続させる事を決める。」

この時、降りしきる雪の中で遊んでいたケーンは母親に「一緒に行かないの?」と尋ね、一人連れていかれるとわかると、遊んでいた木製の橇でサッチャーに殴り掛かり抵抗しますが、結局両親とは引き離され、ニューヨークで育つことになります。置き去りにされた橇には雪が積もっていき、ニューヨークでは代わりに立派な橇がプレゼントされますが、ケーンは全く喜びません。


25歳で相続し世界第6位の資産家となったケーンは金鉱や油田の運営や土地買収には一切興味を示さず、廃業寸前の弱小新聞社「インクワイァラー」を買収し、友人のバーンステインとリーランドとともに経営を始めます。ニューヨークトップの発行部数にするために老舗の新聞社から敏腕記者たちをごっそり引き抜くというえげつない手段も使いました。得意としたのはセンセーショナリズムで、批判されつつもその勢力を全米に広げていきます。

名声も富も高めていく彼は大統領の姪エミリーと結婚しますが、すれ違いの日々が訪れるまでにそう時間はかかりませんでした。そんな折、ケーンは街中でふとしたことで知り合った歌手になることを夢見るスーザンに安らぎを覚えます。

一方で、労働者の立場を守るために政治家になると宣言、知事に立候補し、キャンペーンが繰り広げられます。演説では具体的な政策を述べずに対立候補ゲティスを攻撃する発言ばかりですが、それはむしろ大衆の人気を集め、圧勝予測はもちろん、後にはホワイトハウスも視野に…との期待も高まっていきます。しかし、ゲティス陣営がケーンとスーザンの関係を突き止め、キャンペーンを中止しなければメディアにばらすと脅します。その要求をはねつけてスキャンダルが明るみになったケーンの人気は失墜し、惨敗します。

大恐慌の影響も受けて、ケーンが掌握していたメディア網もほころび始めます。それでもケーンの新聞は読まれ、彼自身も欧州の要人と会見するなど、常に人々の関心を集め続けます。


その後、エミリーとは離婚し、スーザンと再婚。歌手になることを夢見ていた彼女に一流のレッスンを受けさせ、シカゴにオペラハウスを建ててデビューさせますが、残念なことにスーザンには、ケーンと出会った時に自ら語った通りで、それに耐えうるだけの実力はありませんでした。同業者としてはこういう状況を簡単に「才能がない」といった言葉でなるべく書きたくないのですが、映画では残酷にはっきりとそう描かれます。この点はスーザンの項として後述します。彼女を主役に据えた公演は誰が見ても失敗でした。

その批評は、インクワイァラーだけはどうにでも書けたでしょう。実際、盛り上げようと躍起になっていた。でも、劇評担当のリーランドは正直に書こうとしました。どうせ掲載されないであろうとやけ酒をあおりつつ。しかし、酔って眠り込んでしまったリーランドの書きかけの原稿を読んだケーンは、趣旨を保ったまま仕上げます。そして、リーランドは解雇されます。

結果的にすべての新聞で酷評されたスーザンはもう歌手をやめたいとケーンに訴えますが、ケーンは相手にしません。言い争いと確執を繰り返しつつ公演は続きますが、ある日、スーザンは鎮静剤の大量服用で倒れてしまいます(自殺未遂であることは明らかです)。とうとうケーンはスーザンが歌手をやめることを承諾します。


ニューヨークに居続ける気持ちも理由も失ったケーンは、フロリダに壮大な屋敷を建ててスーザンとともに移住します。今までに集めた美術品の数々はもちろん、世界中から動物や珍しいものを集めた広大な敷地。それは「ザナドゥ」と呼ばれるようになりました。ですが、この王国にいるのはケーンとスーザンと使用人だけ。孤独な暮らしに耐え兼ね、スーザンは引き止めるケーンに「I see - it's you that this is being done to! It's not me at all. Not how I feel. Not what it means to me.」 といい、出ていきます。


残されたケーンはスーザンの部屋で手当たり次第にものを投げつけ壊して暴れます。が、スノードームを見つけ、茫然とそれを手にし、かすかな声で「Rosebud…」と呟き、屋敷のどこかに消えていきます。


そして、ここで映画の冒頭シーン―ケーンが壮大な屋敷の中で「Rosebud」と一言呟いて息を引き取る場面へとつながります。


実は、私個人としては、この「Rosebud」という言葉に対してなんだかもやもやした印象があります。というのは、この語を発する冒頭の場面では、口元がアップになり、叫んだわけでもなく誰かに語り掛けたのでもなく、ささやくような、うめくような感じなのです。そして、このシーンを見る限りでは看護人以外に近くにいた人はいないようだし、その看護人すらケーン氏の手から滑り落ちたスノードームが砕ける音を聞いて部屋に入ってきた、あるいは近づいたように見えるからです。

では、いったい誰がこの「Rosebud」という声を聞き、メディアに伝えたのか。

執事レイモンドは取材に来た人にその話をしていますし、確かに彼は、スーザンが立ち去って取り乱したケーンが「Rosebud」と呟いた時には、それが聞こえたであろうところに立っていました。ケーンが息を引き取るときにも、彼はそばにいたのかもしれません。が、映画を見る限りはそこはわからないし、「誰がそれを聞きメディアに伝えたのか」も明言されません。ですから、Rosebudという言葉そのものが、もしかすると壮大な仕掛けであり、メディアの正体を描いているキーワードなのかもしれない…とすら思いますが、まあこれはちょっと考えすぎなのでしょう。


ケーンの訃報を伝えるニュース映画制作チームの担当者が、彼が最期に口にしたとされるRosebudという言葉の謎を解明すべく(おそらく世間に訴えかけるエピソードなりスキャンダルなりを期待して)、サッチャーの記録を調べ、ケーンと深いかかわりのあった人たち(スーザン、リーランド、バーンステイン、執事レイモンド)に取材に行きます。しかし、Rosebudという言葉については何ら手掛かりがつかめないまま、チームは取材を切り上げることになります。


最後のシーンは、屋敷に残された様々なものを整理している場面です。不要なジャンク品と判断されたものが次々と火にくべられていきますが、その中に小さな木製の橇があり、そこには「Rosebud」というロゴが。そう、母親と引き離されるとわかってサッチャー氏に殴り掛かった、あの時の橇です(ケーンとスーザンが出会ったときの会話で、ケーンの母は他界し、引き取った彼女の持ち物を置いている倉庫に感傷に浸りに行く途中だったとの言及があります)。ケーンが最後まで握りしめていたスノードーム、その閉じ込められた世界に舞う雪も、幼少のケーンが母親と引き離された、あの時の景色につながりますが、それはただの偶然なのかもしれません。それでもやはり、「Rosebud」と雪の舞うスノードームには、彼の執着した何かがあったと思える。でも、それも、私が(あるいは取材チームが)そう思いたかっただけなのかもしれません。すべてを手に入れたように見えるケーン、メディアを支配し「王」と呼ばれたケーン。その真実を伝えるすべは、もはや何もないのです。いや、「もはや」ですらない。仮に生きている間に本人に聞きだせたとして、はたしてそれは真実といえるのでしょうか。そもそもケーン自身ですらわかっていないことなのかもしれない。

煙突からは黒い煙が立ち上り、未完の居城ザナドゥの壁には「NO TRESPASSING(立入禁止と字幕が出ることが多いと思われますが、厳密には不法侵入や侵害など、原義としては越えて通るという意味)」と書かれています。


これで内容としては流れをすべて書いたことになりますが、ケーン以外の人物について少し補足させてください。


ドロシー・カミンゴア演じるスーザン・アレクザンダー。母親が望むとおりにオペラ歌手になることを夢見ていた、よく笑う女性。シカゴにオペラハウスまで建ててもらい主役でデビューを飾って、夢が叶った。そのはずでしたが、それは彼女の抱いていた夢とは違ったでしょうし、彼女にとっての幸福とは程遠かったでしょう。酷評されても舞台に出続けることを強いられ、チケットは売れ続け、追い詰められていった彼女。

その酷評されたデビュー公演は、飽き飽きしている関係者や用意された豪華な花とともに、残酷に描かれます。でも、ケーンだけは最後まで見守り拍手し続けました(周りが引くぐらいに)。酔いつぶれたリーランドの書きかけの原稿を酷評のまま書き上げた彼は、いったいどんな気持ちだったのでしょう。そして、それを読んだスーザンの激昂。仮にインクワイァラーが見え透いた称賛をしても、あるいは他のメディアもケーンが財力でどうにかできたとしても、それで彼女は幸福を得られたでしょうか。たぶん違ったと思います。どんなに批評をコントロールしたところで、真実は変えられない。じゃあスーザンはどうしたかったのでしょう。ケーンと出会ってしまったことは悲劇でしかなかったのか。なぜ結婚したのか。なぜ去ったのか。彼女が去ってケーンは何を失ったのか。

ザナドゥでの孤独な生活に耐えられないスーザンがただ時間を費やしていたのは、巨大なジグソーパズルでした。だんだんと埋まっていくパズルと、どんどん虚ろになっていく彼女の心が対比して描かれます。

スーザンはケーンのもとを去った後もアルコール依存症に陥りつつ歌い続けているわけですが、彼女にとって歌うということは一体何なのでしょうか。母親の望みをかなえることと彼女の夢は本当に一致していたのでしょうか。彼女が出続けているナイトクラブは彼女自身が経営しています。きっと、「あのスーザン・アレクザンダーが歌っている」という宣伝で人は集まり、経営は成り立つのでしょう。なんという皮肉、なんという自虐。

そして、見過ごされがちなセリフかもしれませんが、強烈な印象を残すのが、選挙戦中のケーンに対立候補ゲティスがスーザンとのゴシップを暴露すると脅す場面(ケーン、ケーンの当時の妻エミリー、スーザンとゲティスの4人)です。選挙戦の駆け引きと、大統領の姪であるエミリーの立場。スーザンの「私はどうなるの?」という言葉には、誰も返事すらしません。ケーンの息子のことも心配するスーザンでしたが、彼女の立場を守ろうとする人は誰一人いなかったのです。


リーランドを演じるのはジョセフ・コットンです。ケーンとは古い付き合いの友人で、由緒正しい家柄の出身とのことですが、いろいろ事情があり豊かではなかったようです。ケーンに母親に対する執着があったとしたら、リーランドにはおそらく父親に対する複雑な思いがあったであろうことがうかがわれます。彼はバーンステインとともにケーンを支える大きな力となりましたが、ケーンの様々な部分を理解していたからこそ、行き違いも避けられなかった立場でもあります。リーランドは、矛盾を感じればそれをうやむやにできず抱え続ける人です。ニュース映画の取材に答えて彼は「私は忘れたいことも覚えている、記憶は人間に与えられた最もつらい刑罰だ」と語りだします。ケーンについては「彼は自分にひどい仕打ちをした、私を友人とは思っていなかったのだろう」とも言っています。人の心って複雑(凡庸な表現ですみません)。「彼はいつも何かを証明したがった」というのも、なんというか、ああそうだ、その通りだな…と思います(これまだぼんやりしたことしか言えず申し訳ありません)。リーランドは、ケーンとスーザンのゴシップが暴露された紙面の見出しについて「『歌手』との愛の巣発覚」と『』つきで書かれたことがケーンの気に入らなかったのだ、だからその『』を取ろうとしたのだ」と語ります。これはザナドゥから来た手紙でケーン自身が彼に告げたことだとも言っています。ケーンにとってリーランドはやはり友人だったのかもしれません。

リーランドとケーンの会話の中で、労働者の権利についての言及が出てきますが、ここもとても興味深いです。


ここまで度々言及している「ケーンの訃報を伝えるニュース映画」(念のため補足説明しますと、ニュース映画とは20世紀初頭~TVが普及するまでの間に時事問題などを伝えるために制作・上映されていた短編映画の類です)は、映画冒頭から続く場面で試写が行われるのですが、そこで「新聞はもう古い」「こんな内容しかないなら新聞と同じではないか」といったセリフが出てきます。また、ニュース映画の中でも「ケーンのやり方は時代遅れとなった」という内容の言及があります。メディアが変化し、その変化を作るのも壊すのもメディア自らの変容である、ということが暗に含まれています。


そしてタイトルのこと。なぜCitizen Kaneなのか。

ケーンの訃報を知らせるニュース映画の試写映像では、ケーンについてコミュニストだと評する人もいればファシストだとする人もいることがわかります。が、本人は「I am, have been, and will be only one thing - an American.”と述べていたと字幕が出ます。

「彼はある時は参戦を呼び掛け、ある時は反対した。少なくとも一人の大統領当選に関与した。たくさんのアメリカ人のために尽力し、それより多くのアメリカ人に憎まれもした。」とニュース映画のナレーターは語ります。

これをどう理解すべきなのか。アメリカとはいったい何なのか。

人が人として、市民として生きる上で、必要なものは何か。手に入れようと思ってもかなわないものがあるとしたら、それは何か。どこにあって、どんな権利でそれが得られるのか。

そして、得られないのは、なぜなのか。


書けば書くほど、なんか現代にもこういう人いるな…?こういうことあるな…?というある意味ベタな感想はさておき…


最後にあとひとことだけ。

みんな演技うまくてすごい。



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