おとり捜査を依頼された話 その②
何しろ同じ建物の住人同士ですから、建物の入り口から一緒です。作戦を練る間もない。引っ越してきたばかりでまだお店とかよくわからないんだよねえ、などと世間話をしながら駅の近くまで歩き、ごく普通のファミレスに入りました。
入るときの案内待ちで名前を聞かれて、Mさんは何か言いかけてからふと振り向き、私に「あなたの名前にしといて」と言いました。
まあいいですけど。こっちもどうせそんなところで本名は名乗らないし。
「練習終わったら普段は何してんの?」とか聞かれ、ご飯作って食べます、と。
「え?ほかには?TV見たりするだけ?」「あーTVは無いので、友達と電話やメールしたり、あとは本読んだり、DVDで映画やオペラとか・・・」
最初はこんな感じの普通の会話ばかりでしたけれど、いちいちいろいろ引っ掛かります。
例えば「本はどんなの読むの?」「まあいろいろ・・・最近は心理学系を数冊まとめて読みましたけど・・・」「僕も心理学はかなり突っ込んでやったんだよ」(うわ・・・系統が違うとごちゃごちゃめんどくさいよなあ・・・)からの・・・
「カントとかね(Mさん談)」
・・・えっ・・・
「斬新なカテゴライズですね(にっこり・・・)」
ほかにも、どうも的外れな会話が続きます。
で、なんなんだろう、仕事の話だとか言ってたが、この胡散臭いノリだと、とにかくどうやって断るかだな・・・と身構えつつ、どんどん怪しい話になっていく。怪しいというかなんというか。たくさんの要素が次々並べられるんですけれど、それぞれがちゃんと結びつかない。
まず、「活動するにも資金が大変だろう、どうしているんだ」という話をいろいろ突っ込んできました。
自分はアートディーラーとして買い付けから販売まで関わっている、あなたのような才能のある人にはぜひ資金提供の協力をしたい、転売益を生むように途中でいったん名義貸しをするだけだ、毎月このくらいの取引があるのでこんな感じの利益が出る(と黒の塗りつぶしが入った契約書のサンプルを何枚も見せられる)、顧客にはこういう人(業界の有名人だが微妙にジャンル違いでここもおかしい)もいるから紹介する、その気なら今すぐ電話するがどうか、とか、急にどんどん畳みかけてきます。
・・・ええと、まずその方(Mさんが電話するといっているその有名人)はジャンルが少し違うので私と共有されるような仕事はないと思われますし、私も一応お世話になっているプロデューサーさんがいるし、所属という扱いではないがマネジメント事務所(もともとそういう方針ではない事務所)もあるので、その方々を通してもらえますか?みたいな話も、「そんなこといちいち気にするより君が今即決すべきだ、そんなことじゃ大事な機会を逃すぞ」「でも私は即決は苦手でちゃんと考えてお返事をしたいですし、それで機会を逃すなら仕方ありません」「何を言っているんだ、君にはそもそも仕事に対するヴィジョンがあるのか?」とかはぐらかしてくる(少なくとも自分は仕事のヴィジョンは資金調達とは関係ないと思っているけど・・・)。
ああ、言い忘れていましたが、ここに至るまで、その転売益がどうとかいう話も、大事なところになるとやけにぼそぼそというかもそもそというか、変な感じの小声になるんですよ(いかにも他人に聞かれたらまずい雰囲気を醸し出すがよく聞くとただごまかしているようにも取れる)。でも、こちらの返事や質問は大声でさせる。取引での海外出張が多いので慢性的な航空性難聴だとか言うんですが、私が大声で話すとなると、Mさんの小声は「周りに聞かれないように」という説明もつかなくなる。それに、質問すると、ちょっと答えかけたところでポケットの携帯電話に着信があった雰囲気で席を外し、戻ってきたときには続きを話そうとしない。話を戻すと「そういう細かいところにこだわれる立場なのか」と一瞬恫喝めいてくる。でもおおむね「怖い」雰囲気ではなく「君を見込んでいってるんだ」というスタンス。才能を見抜いたからこそ言っている、名前は出せないが今活躍するモデルやタレンとかも何人も僕がこのやり方で資金援助してきた、とかいろいろ。
食事に出かけたのが夜の9時半くらいで、その時点でもう深夜0時近くなっていました。
ここで「もう帰ります!」と啖呵を切ったところで・・・同じ建物に住んでいるわけですよ・・・さあどうする・・・
ちょっと考えます、と何度も言っているのだけれど、Mさんは「今月分の締めが近づいている、これを逃せば来月だし、その間に僕の気が変わったら君は一生チャンスを逃すことになる、君はしょせんそれだけの人なんだろう」みたいなことも言い出しています。
でもねえ。私は絶対にその話には乗らない。儲け話は絶対に降って湧いたりしない。いくら私の練習を聞いて「才能をがある!」と言ってくれても、そういう簡単な話じゃないことも、いやってほど思い知らされてきたんだよ。そして何より、あなたの話は全部胡散臭い。
なので、とにかく穏便に断りたい、それだけなんですよ。仮にその人が実際アートディーラーの大物で、話が部分的であっても本当だとしたら(ほぼそれはないと思っていたけど)、共通の知り合いや関係者に迷惑はかけたくないので、とにかく穏便に逃げたい。
とにかく、家に帰らねば。
実は数日前に遊びに来ていた生徒さん(この話の前回に登場)の家は、銀座の老舗の画廊です。聞けば何かわかるかもしれない。でももう深夜が近づいている・・・
とりあえずお手洗いに立ち、相手には「どこかに連絡を取ったか」と思われるよう少し時間を稼ぎ、席に戻ると、Mさんも「今日は動かせないな」的に観念したのか、「もう遅いから帰ろう」と言い出しました。
帰宅。さらに数冊の資料フォルダをわたされ、「これをよく見てよく考えて。また明日話そう」。
0時をとっくに回っていました。でも、躊躇している時間はない。
例の生徒に電話し、遅い時間に電話したことを詫び、もう寝てしまっているご両親に朝聞いてくれるようお願いしました。それから、名刺の名前をインターネット検索。予想はしていましたが、その名前では何も引っかからない。
友人に相談のメールをしたらまだ起きていて心配して電話してきてくれて、うん、それは怪しいねえ、と。でも、いい話ではあるよね、練習聞こえてるわけだし、まあ、ほんとかもよ?みたいなことも。でも私は99.9999%詐欺だなとすでに思っていました。(ちなみにこういう時も100%とは思わない主義です。)
ただ、あのギャラリーのカタログは・・・印刷のクオリティも高いし、かなりお金がかかっている。あのギャラリーも偽物?だとしたら大がかりだな・・・
名刺を見ると、事務所の住所がなんと徒歩圏内。とにかく真下に住んでいる身として居留守も使えないし、夜が明けて活動時間帯に入ったらまたすぐ電話がかかってくるかもしれない。明るくなってきたら、とにかくこの住所に行ってみよう。
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