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ミームについての考察

突然ですが、ミームという言葉について以前から少し考えていました。

この言葉、皆さんの目に付くとしたら、特に最近は主に「インターネット・ミーム(ネットミーム)」のことかもしれません。言葉が省略されたり短縮化するのは自分が把握している範囲では日本語に限った現象でもないので、日本語表記での「ミーム」と同様に英語でも「meme」という単語は目にしますし、それはやはり英語でもう一つよく見かけるviralという語とほぼ同義語的に「(特にSNSなどのインターネットメディアを通じて)流行している何か」という意味で広く用いられているようです。


…などというのは何も私がここで解説するまでもなく皆さんきっとご存知だと思うのですが、これが自分にとっては最近ちょっと悩みの種というか…悩むほどのことではないんですけれど、なんというか、せっかくいい用語に出会ったのになんと不便な!という事態に勝手ながら直面している、というか。


そもそもミームという語は、1970年代頃から論じられるようになった進化学の利己的遺伝子論について、動物行動学者・進化生物学者リチャード・ドーキンスが1976年に著作「利己的な遺伝子The Selfish Gene」という本で解説のために用いた(作った)ことから広まったものです。

そのさらに元となったものはもう少し遡って20世紀初頭には見出すことができるようですが、ミーメーシスという哲学・美学・芸術学などでみられる用語に語源を持つことは明らかなので、そこを含めて考えると起源的なものを定義づけるのは困難かもしれません。


以下、本日(2023年8月12日)時点でのWikipedia「ミーム」から転載させていただきます。


ミーム(meme)とは、脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報である。例えば習慣や技能、物語といった社会的、文化的な情報である。


文化的な情報は会話、人々の振る舞い、本、儀式、教育、マスメディア等によって脳から脳へとコピーされていくが、そのプロセスを進化のアルゴリズムという観点で分析するための概念である(ただしミームとは何かという定義は論者によって幅がある)。ミームを研究する学問はミーム学 (Memetics)と呼ばれる。


ミームは遺伝子との類推から生まれた概念である。それはミームが「進化」する仕組みを、遺伝子が進化する仕組みとの類推で考察できるということである。つまり遺伝子が生物を形成する情報であるように、ミームは文化を形成する情報であり、進化する。


さらに遺伝子の進化とミームの進化は無関係ではなく、相互に影響しあいながら進化する。


ミームの日本語での訳語は模倣子、模伝子、意伝子がある。


もともとミームという言葉は、動物行動学者、進化生物学者であるリチャード・ドーキンスが、1976年に『利己的な遺伝子』という本の中で作ったものである。まず、ドーキンスはギリシャ語の語根 から mimeme という語を作った。mim は「模倣」を意味し、-eme は「…素」を意味する名詞を作る接尾辞である。彼は、この語を遺伝子(gene)のような一音節の単語にしたかったので、縮めて meme「ミーム」 とした。ドーキンスは meme について、memory「記憶」やフランス語の même [mɛːm]「同じ」と結びつけて考えることもできるだろうと述べている。ドーキンスは、ミームを脳から脳へと伝わる文化の単位としており、例としてメロディやキャッチフレーズ、服の流行、橋の作り方などをあげている。


以上引用でした。


以前に別の記事やプログラムノートでも言及したことがありますが、「ゲシュタルト崩壊」とか「イヤーワーム」「パレイドリアとシミュラクラ」なんかと同様で「名前つけておいてくれてありがとう」という用語ってありますよね。ミームもまさにそれだなあと思っていたんです。前述のとおり、また、引用にもあるとおり、ミーメーシスという語は哲学・美学・芸術学などでもおなじみなのでこの語源は納得ですし、geneとの語感のそろえ方も予想通りでしたので、これは自分がずっと考えていることを説明するのに便利な用語だなあ…と。ですが、どうもそういう本来の意味とちょっと違うかたちでミーム=インターネット・ミームとしてどんどん広がってしまっている現状…インターネット・ミームという概念もドーキンス氏はミームの一つとして(やや別の概念として)認めてはいるので、そこに文句を言っても仕方ないんですが、ミームという語がまさにミームとなって変化(進化?)してしまったわけです。


でも不都合な側面ばかりではありません。この「インターネット・ミーム」というものが広がったおかげで、「ミーム」は本来はなんか難しい概念らしいぞみたいな話からミーム論の概要に言及している記事なども目にするようになったのも確かですし。

というわけで、これを機に私が思う「ミーム論」をちょこっとだけ書いてみる気になりました(そのうちもう少し体系的にまとめたい概念なので、ここで書くのはほんのとっかかりです)。


私は、例えば音楽作品を演奏するうえで「私の独自の解釈を皆さんにお聞かせしたい」などとは全く考えていない。むしろ、楽曲を解釈していくうえで私という存在など入り込む余地は全くないと思っています。じゃあその解釈って何か?という話なんですけれど、記号化されたものを物理現象として再現していくうえで、作曲者の頭で鳴っていたはずの状態をトレースしていきたい、みたいな…。


はいそうです、つまりただの妄想です。


そうなんですが、もう少し具体的に述べてみましょう。

以前モーツァルトのロンドK.511をコンサートで演奏した際にプログラムノートでも少し書いていますが、ここにはグルックの楽曲の断片が現れます。彼の頭の中で鳴っていた、彼の創作ではない楽曲の断片。不思議なことに、彼の「創作(定義が難しいですが)」ではない、このグルックの断片が不意に楽曲中に現れることで、私たちはむしろリアルに彼のイヤーワーム的なものを追体験することができるのです。創作となると何か神秘的な誕生の過程がある気がしてしまいますが、グルックの楽曲の断片は確実に外部からモーツァルトの頭の中に入っていったという過程がリアリティをもって感じられるからだと思います。

とはいえやはり漠然としたものではありますよね。なので根気よく周辺を掘っていく必要があります。例えばガルッピの楽曲を演奏するとよく「それはモーツァルトですか」と聞かれます。モーツァルトはガルッピの楽譜をたくさん所有していたという記述があるので、モーツァルトの頭の中でガルッピの楽曲が鳴っていたのもおそらく事実です。

そう、こうやって、人工的な遺伝子のようなものが継承されていくわけです。


別の例を挙げてみます。

クィーンの「ボヘミアン・ラプソディ」を初めて聞いたとき、前半部分で、ああ自分はこれを知っている、この曲ではないけれどこれと同じ感覚を私は確実に知っている…と思ったんです。でも何だったか思い出せなくて。で、中間部も、ああこれも知っている、何か別のものだけど、私はこれを知っている、と思った。でもやはりなぜ知っていると思ったか思い出せなかったんですけれど。その後たぶん何年もたってから久し振りにマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の終盤でトゥリッドゥがうたう"Mamma, quel vino è generoso"を聴いていたとき、「ああこれだ、これを彼(フレディ・マーキュリー)は聞いたことがあったんだ」と思った。中間部はモーツァルトの某歌劇の某部分…この辺はちょっといろいろ面倒な案件が絡むため、細かく書くにはかなりリサーチが必要なので適当に流しておきますが、フレディー・マーキュリーについては「幼少期にオペラなどにも親しんでいた」というのは割とよく知られている事実だと思います。


はいそうです、結局ただの妄想です!


でも、私にとって楽曲を解釈するというのは、こういうミームをたどる作業に他ならない、と言えます。


結構いっぱい書いた割にぜーんぜんまとまってないですねー!でも今日はここまでです!!



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