ジャゾットさんの話 続き
「アルビノーニのアダージョ」はほぼほぼジャゾットさんという人の創作だった、という話の続きです。
ジャゾット氏が後年この作品についてどう語ったのか、割と最近のことであるにもかかわらず、意訳や切り取りかたなのか、かなり「ん?そんなことも言ってたの??」という記事も結構出てきます。
クラシック音楽としてはかなりの大ヒットですし、映画で使われたりして、版権を持っていたジャゾット氏は「お金儲けのために贋作をでっち上げた」的なことも言われてしまっていた(いる)ようです。
まあ実際のところ、元になったというか、とにかく「発見された」アルビノーニによる手稿譜とされるものは、かなり断片的で、見る限り、よくこれをあそこまで膨らませたもんだよなあ…と思うし、「ええ、そうですよ完全な創作ですよ」と開き直った発言をしたくなったのもわかる気はします。「発見された素材は全く含まれていない」と断言する記述も多く見受けられます。が、見てみると、先入観も手伝って、なんとなく自分は「ああ、これを膨らませたのか…」と納得しなくもないです。
とはいえ…例えば「鍛冶屋であった彼は不意に」とかいう文の断片から物語を一篇書き上げたような感じで、まあそうだな、ああそうね確かに主人公は鍛冶屋だね……くらいの膨らませっぷり!とは正直思うので、やはり、まあ、ねえ。
あと、ジャゾットさんの心理として、音楽の世界にもすっかっり広告代理店の文化が定着し、バロック音楽も「商品として」ブームになったりしている中で、「じゃあ私が作曲したと言ったら同じようにこの曲が皆さんの気に入ったでしょうかねえ」というストレスというかジレンマというか、なんか複雑な気持ちはあったんじゃないかなあ…と思ったりします(これはただの憶測というか妄想ですが)。
で、先日予告として書いたとおり、主題曲として使われたことで「アルビノーニのアダージョ」がブームになるきっかけにもなったといわれる、オーソン・ウェルズ監督出演の映画「審判」のことを少々。
初めてこの映画を見たとき、正直、なんか得体のしれない違和感があったんですよ。
ふーん、カフカの「審判」にアルビノーニのアダージョねえ…。なんかしっくりくるようなこないような。
「絶対合わない」とは思わないんだけど、なんか、なんか、なんか違う気がする。
でも、繰り返し見ているうちに、ああ、きっとこの違和感こそこの映画にぴったりくるんだよな、と感じるようになりました。画家ティトレッリ氏を訪問する場面の音楽とのギャップも含めて、ああこれなんだな、と。うまく言えないですけれど。
ちなみにその時はまだ、この曲の実際の作曲者といえるのがジャゾット氏だということは知りませんでした。
O.ウェルズがこの映画にこの曲を選んだ頃も、もちろんアルビノーニの作品だと信じられていたと思います(音楽学者の間では割と早くから取り沙汰されてきたとは思いますが、それでもアルビノーニのアダージョの出版が1958年、「審判」は1962年の作品ですので、まだまだ当たり前のようにアルビノーニ作曲として普通に扱われていたと思います。
その後ジャゾット氏のことを知って、なんだか衝撃でした。何がって…O.ウェルズはおそらくこのことを知らずに、「ある日突然何の理由もわからないまま裁判にかけられることになった人の顛末」を描く映画を作るにあたって、この、ある意味正体不明の音楽を持ってきたって、なんかもう……すごくないですか?なにがすごいのかよくわかんないけど。
またしても雑な締めですみません。

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