noteからの転載⑥山羊の反芻
尾崎放哉のこと
2020/08/28 12:28
尾崎放哉botツイートは日々の楽しみの一つです。よく知っている句も初めて見る句も、どれもこれも、ああやっぱり私は放哉が好きなんだなあと思って読みます。
私は縦書きが好きではありません。日本の古典文学などオリジナルが縦書きでないと成立しないものを除き、なんでも横書きにして読みたいほうです。自分の書いた記事が雑誌に掲載されるというときも、ずっと横書きで原稿を書いていて(PCなので)、そういえば読む人は縦書きで読むんだよな…と、ある程度まとまった時点で縦書きにして読み返すと微妙に印象が違うことによく戸惑いました。縦書きだと考える前に追いかけながら頷かされてしまう、あの感じが怖いというか。なんでしょうね、とにかく自分は縦書きと相性がよくないんだと思います。
誤解のないように言えば、だから日本文学や和歌、俳句が嫌いとかいうことではありません。
さて、尾崎放哉の何がこんなに特別なのか、どうして山頭火とは自分には違って見えるのかが不思議で、今まで度々そのことを考えてきたんですけれど、さっき不意に、ああ、まるで音が減衰して消えていくように、この人の句は空中で消えていくんだ、ということに思い当たりました。
字数と縦書きのせいで「すとん」と収まってしまう俳句や和歌(個人の感想です)。そのためによく考える前に頷かされてしまっている気がして不安になる(個人の感想です)。そういう自分にとって、放哉の句は空中で消える。縦書きであってもそれは変わらない。余韻とかそういうものともちがう。不意に取り残され、その取り残された空気と私の境界線がなくなって、私も空気になる。空気だけがそこに残る。その空気を感じる自分は自分なのか空気そのものなのか。

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