山羊の反芻 あるイタリア生活エッセイ本について
イタリアについてのエッセイ本のことでしばらく前にちょっとツイートしたんですけれど。
とあるイタリア人が著者とされているイタリア人の生活に関するエッセイ。公立図書館などにも所蔵されているし割と長い間書店でも見かけてきていますし、イタリア通の方には結構愛読されていると思われます。著者の経歴もそれらしいものが書かれています。
その本を「翻訳した」人はそれ以前にご自分の著書としてもイタリア関連のエッセイ本を出版されており、たまたま私のイタリア人の友人たちが複数その本に登場しています。なので間接的に知っている感じなんですけれど、その人が今度は「翻訳者」として、イタリア人の著作を出版した、という体裁になっています。
ただ…その「作者」とされる人の名前が…たまたまなんでしょうけれど、以前の本に登場した私の2人の友人の姓名を組み合わせたものなんですよ…。でも、その名前でイタリア国内で著作物が出版された記録は一切見つからないし、原題とされるイタリア語のタイトルで検索しても、日本以外で翻訳されて出版された形跡はありません。まあそれ自体はそれほど珍しいことでもないかもしれませんが、名前が組み合わされた友人のほかにも以前の本に登場するあと数名の知り合いも含めて聞いてみても「その組合わせの名前の人は周りにはいない」とのこと。
真偽のほどが絶対的に100%とは言い切れないので作者名も著作名も伏せますけれど…イタリア人が書いた体裁になってるけど…これ書いたの日本人だよ、たぶん。あくまでも「たぶん」なんですけれど。
それ自体はある意味割とどうでもいいんですけれど、ジャゾットさんとはまたケースが違いますが、なんというか…「本当は誰が書いたの?どうして自分が書いたものとして出版するのではいけなかったの?」という疑問がわいてしまいます。
そして、「イタリア人が書いたってことにしたほうがウケがいい」みたいな問題点ってかなり根が深いのではないか、と…。
たまたま身の回りにいる「イタリア好き」「イタリア通」の人もしばしばこのエッセイ本に書かれているエピソードを引用して「イタリア人ってのはこうでね」などと語っていたりするので、なんか微妙な気持ちにはなってしまいます。
共演者が日本人の時、自分の作品に対する解釈を論じていた際に「へえ…それって外国仕込み?」って聞かれて、本当にうんざりしたことがあります。
ハンガリーの管弦楽団とスペイン音楽で共演した際、コンサートマスターに「日本人のあなたがスペイン音楽をこうやって解釈できているのはどういう秘密があるのか」と聞かれました。
その時は、私は本当にスペイン音楽を理解するために90分くらいに及ぶスペイン音楽に関する動画を数か月間あきれるほど毎日繰り返し見ていたし、スペイン音楽関連の書籍本数冊を丸ごと書き写すくらい読み込んでいたし、勢い余って、スペイン舞踊も信号待ちの間にすら踊りだせるくらいだった。ハンガリーのオケの人は「自分たちのほうが距離は近いがあなたのようなアプローチはできていない、あなたと共演して解釈を深めることができた」といってくれた。何よりもの誉め言葉でした。わかったふりをするのではなく、ひたすら受け身として浴びつくした。外国人であることをたっぷり自覚しながら。その結果受けることができた評価だったと思います。
イタリア人のふりをしてエッセイを書いた人の気持ちは理解できなくもないです。
でも、私は「なりすます」ことよりも、徹して外から観察する目と耳を持ち続けたいと思いました。

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