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カヴァレリア・ルスティカーナの話

  • Feb 8
  • 9 min read

Updated: Feb 9

以前(2022年10月)、サポーターの皆さま限定公開ブログに書いた件に少し加筆修正して改めて公開記事として書かせていただきます。


最初に書いたのは、もう数年前のことですが、狙撃され亡くなった元首相の「国葬儀」でマスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲が流れたことをめぐり、某SNS(当時は私もそのSNSでアカウントを持っていました)でいろいろ話題となって、あらゆる意味でがっかりしたというか、本当にやるせない気持ちになったことがきっかけでした。ただ、当時リアルタイム的にその話題をブログとして公開するのは状況的に憚られるものはありましたので、限定公開のブログとして出させていただいた次第でした。


今になって改めて公開記事として書こうと思ったのは、昨今の社会情勢の変化に少々絶望感というか諦念というか…複雑な心境を抱いているから…というのがあります。


限定ブログとして書いた当初、私が何にがっかりしたのかというところから書きますと、この曲が流れたことについて、ある党(非自民で国政でいうところの当時も残念ながら現在も反与党勢力側、私自身の支持政党でもある党)所属の地方議員さんが「この歌劇の内容を知らないからこんな選曲をしたのでは?海外からの要人参列者はオペラの知識があるだろうから常識知らずだと驚いたのでは?恥ずかしい!」といった内容で投稿し、支持者さんなどが「さすが芸術に造詣が深い○○さん!」みたいにはやし立てていた状況…記録をとっているわけではないので原文のままではありませんが、要するにとにかく「いざこざがあって決闘となり銃で撃たれるというストーリーなのに狙撃され亡くなった元首相の葬儀でそれをかけるなんて非常識な選曲だし、誰もそれに気づかないとは!」という内容の指摘が行われておりまして…(実際もっと雑な表現が飛び交っており、その状況化は想像に難くないことと思いますが、ここにはそういった文言は出しません)


まず、ストーリーをそんな雑なまとめ方しないでほしい。そして、あらゆる意味で解釈がひどい。あまりにもひどい。ひどすぎるんです。


というか、指摘するならそこじゃないんだ。


再度念を押して言いますが、私の支持政党の所属議員さんです。私は自民支持ではありません。でもそれは関係ない。


まずは、カヴァレリア・ルスティカーナについて少し解説させていただきます。

もちろん作品概要はWikipediaなどでもご確認いただけると思いますが、ざっくり言えば、1889年に書かれたマスカーニ作曲のオペラで、種類としてはヴェリズモ(イタリア語で「現実主義」の意)であり、シチリアを舞台としています。

ヴェリズモとは?という点をここにまとめるとなるとかなり雑な解説になりますが(ちゃんと説明するには本1冊とか書かないといけない)、オペラは元々は神話や歴史などに基づくストーリーをベースに作曲されるものでした。演者の表現もある意味で「様式化された」技法に基づいていました。これがオペラってものの「ピンとこない感」の根源でもあります。ぶっちゃけて言えば、怒ってるのに奇麗な声で歌うんだね?みたいな。そこから様々な変遷を経て(超雑)、この「カヴァレリア・ルスティカーナ」の時代には、ストーリーも表現もある種のリアリティを追求する時代に入ってきた。そんな感じです。

カヴァレリア・ルスティカーナという作品を理解するにはシチリアの伝統なども念頭に入れないといけないんですが、それも踏まえるとまた別の本が一冊かけちゃうくらいのめんどくさい話なので困ったもんです。また、原作(短編小説と戯曲の2種があります)とオペラ台本にいろいろと違いがあることで、オペラ版での解釈や演出にも様々な差が生じたりします。それを考えだすと本当にきりがないので、ここでは基本的にオペラ版のみについて考察していきます。

登場人物は、サントゥッツァ、トゥリッドゥ、アルフィオ、ローラ、ルチア。この5人と村人たち。

私はサントゥッツァが主役だと思っていますが、これは解釈によります。サントゥッツァは身寄りがなくルチアが世話をしてきた、という設定が多い印象です(この点は実は原作と大きく異なる点ですし、オペラでの明確な記述もありません)。ルチアの息子トゥリッドゥはローラと恋仲でしたが、兵役の間にローラは町の有力者アルフィオと結婚してしまっていた。もともとサントゥッツァはトゥリッドゥに思いを寄せており、二人は恋仲になりましたが、そんな折、トゥリッドゥとローラが秘密裏によりを戻していたことをサントゥッツァが知ってしまいます。サントゥッツァはトゥリッドゥの子を身ごもっている(いた)とされますが、婚姻関係に至るまえの妊娠は、当時のカトリック教会では破門に値する「罪」。

そうそう、オペラとしてのあらすじだけWiki等でチェックすると、トゥリッドゥが兵役についてた頃や兵役から帰ってきたときの様子を描く場面が含まれるなど様々な勘違いしてしまいがちですが(前述の件で話題になった当時のSNSでは明らかにその辺をとり違えている方が散見しました)、兵役の話はサントゥッツァやトゥリッドゥの台詞(歌詞)で言及されるだけであり、オペラの中では基本的に復活祭の一日の出来事のみが描かれています。ただ、原作版の設定に基づきトゥリッドゥが兵士の服装で出てくる演出もあったりはします。

村が復活祭でにぎわう中、サントゥッツァはひとり家に残り苦悩します。そこに戻ってきたトゥリッドゥに詰め寄りますが、邪険にされ、取り乱した彼女は「A te, la mala pascua!」と叫んでしまう。これは「あんたの復活祭に呪いあれ!」といった意味。かなり激しい文言です。言っちゃいけないことを言ってしまったわけです。宗教的に非常に重要な復活祭ですから、その言葉はほんとうに重い。さらにサントゥッツァは、トゥリッドゥが立ち去った後に通りかかったアルフィオに、ローラとトゥリッドゥの関係をばらしてしまう。すぐに激しい後悔に襲われますが、アルフィオはトゥリッドゥへの怒りとサントゥッツァへの感謝を述べ、退場。


ここで流れるのが、有名な「間奏曲」です。この間奏曲は単独で演奏される機会も多く、オペラ全体を観たり聴いたりしたことはなくてもこの楽曲だけはご存じという方は少なくないと思います。


後半のストーリーは割愛しますが、最終的に、決闘でトゥリッドゥが撃たれたことを告げる村人のセリフで幕となります。


私が主役であると思うサントゥッツァを中心に、登場人物の立場をもう少し見てみましょう。

トゥリッドゥとアルフィオは決闘になるだろう。どちらが倒れても、自分は愛する人を失ってしまう。この絶望的な状況を、サントゥッツァは自ら招いてしまったわけです。でも、たとえいま彼女が見て見ぬふりをしたとして、何かが変わるだろうか。きっと遅かれ早かれこういうことになることもわかっています。

ちなみに、これもざっくりした説明になりますが、当時のシチリアの風習的には、この類の話での女性側(例えばローラの行動など)の責任は問われなかったとされています。そこらへんで演出家はかなり悩むようですし、観ている側も少しもやもやします。

また、これも原作版での設定上などから、ローラは子どもができないという悩みがあったという解釈に基づく演出があるようです。一方、サントゥッツァは婚前に身ごもってしまい教会から破門された身です。ただしこの点も前述の生い立ちに関することと同様で、オペラの劇中に具体的に事実関係がわかる台詞(歌詞)などはほとんどありません。


この間奏曲はピアニッシモで高めの位置から始まり、しばらくは低音楽器も出てこなくて、宙に浮いた、どこにも居場所がない、よりどころのない、行く当てのない、まるでサントゥッツァの存在そのもの。

そして、ポピュラー音楽的用語でいう「サビ」の部分。管弦楽編成を見れば、ここでチャーチオルガンが入ってきていることがわかります(普通に管弦楽で聞いているだけだと意外と気づきにくいかもしれませんが)。祈りと教会というものがそこに姿を現して、救いでもあるが彼女を孤立させているのもまた教会であることが残酷に響くとも読み取れます。

名手ゼフィレッリの映画版演出では、この間奏曲の出だしで、シチリアの広い景色にサントゥッツァが一人ぽつんと歩いて復活祭のミサが行われている教会へ向かう姿が描かれます(これは映画版ならではの利点も存分に生かした見事な演出だと思います)。ですが、教会で目にするのは、目配せしあうトゥリッドゥとローラの姿。もはや何を祈ればよいのかすらわからない。そんなサントゥッツァの状況を、あの間奏曲は描いているのです。

そしてこの部分のメロディーは、持ち上げても、何度持ち上げ直しても、どうしても降りてきてしまう。抗っても、しがみついても、どうしても降りてきてしまうんです。そして最後に、消え入るようにかすかな高音が残ります。


忘れてはならないもう一つ、この行き違い、この悲劇のもとになったのは、オペラでは前述のとおりであまりフォーカスされない脚本となってはいますが、「兵役」なんです。


そう、どうにもならない状況への絶望、自分の行動が破滅を呼ぶと分かっていながら止められなかった衝動、共同体からの断絶(身寄りがないことに加え教会からの破門)、そこにジェンダー、兵役まで入ってくる。


これをちゃんと論点として引き合いに出せなかったの、政治家として、ほんとに残念過ぎるんですよ…「ストーリー云々」という部分を超え、もっと深く掘り下げるべき問題がたくさん含まれていたはずだった。

悲劇はなぜ起きたのか。どこに起きたのか。誰が被害者で、誰が加害者なのか。

そこにある共同体と個人の問題、制度や規律の問題、家族や宗教の問題。そしてそういうものを、受け入れたくなくとも受け入れて、それでも存在していくことで味わう避けられない悲しみとか、あらゆることをあの楽曲は内包しているはずだった。


解釈していけばいくほど、あの楽曲は、いろいろ納得のいかない状況に苦しみ悩み、すがるものの存在や意味すら失いつつある人の、行き場のない祈りなんです。


なお「間奏曲」の部分は後年に作曲者自身により「アヴェ・マリア」として独唱パートが加えられ出版されています。オペラ作曲の前にすでにこの楽曲は構想されていた、というのも定説です。


まあついでにちょっと愚痴っぽいことを言うと、ストーリーを雑にまとめた程度で「さすが造詣が深い!」とか言われちゃうのも、その指摘に加担する意見の中にはおそらくネットなどで得られる表面的な情報だけでなされたらしき「解釈」が多く見受けられたのも、ほんとに残念だった。支持政党だろうが何だろうが失望したことには変わりありませんでした。

人も、人のつくるものも、あらゆる生き物も無機物も、こうやって無自覚に壊すんだ。


今日は衆議院選挙の投開票日でした。やるせない思いを込めて。



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